石田を取り巻く「可哀想」について思うこと
湿っぽいタイトルで申し訳ないのですが。
私は、石田を「可哀想」だと思いたくない。
言いたいのはただそれだけです。
本当は先発したいのに今年も中継ぎで「可哀想」。火消しばっかりで「可哀想」。回跨ぎさせられて「可哀想」……。
色んな「可哀想」が取り巻いているなあ、と思います。
もちろん、石田が可哀想だという気持ちも、石田への愛情の一つであるのは間違いないと考えています。石田のために怒っているということが、その深さ、強さを証明していますよね。
でも、私は「可哀想」だと思いたくない。
それが何故か、というお話をさせてください。
そもそも私が石田のファンになったのは、「かわいそう」だと思ったからです。
防御率のわりになかなか勝ちがつかなくて、なんだか「かわいそう」なルーキーだな。
この「かわいそう」はたぶん「可哀想」ではなく「可愛そう」。放っておけないなあ、とか、来年はきっと活躍するから応援したいな、とか、そういうニュアンス。
個人的に「可愛そう」な人を推す傾向があるのは間違いないのですが、それはどこか寂しい感じがするとか、生き方が不器用とか、そういう人を放っておけなくなる、という種類の「可愛そう」であって、言葉を変えると「守りたい」とかそういう感じ。もっと気持ち悪い言葉で言えば庇護欲や母性本能をくすぐられる、そういう意味での「可愛そう」なんですよね(知らんがな)。
「かわいそう」という言葉がそもそも「可愛い」から成り立っているので、あながち間違いではないでしょう。「可愛そう」と「可愛い」は紙一重なのです。
「かわいそう」に「可哀想」という字が当てられるようになったのは、時代を経て"哀れみ"というニュアンスが強くなっていったからなのだそうです。
今の石田を取り巻く「かわいそう」は、「可愛そう」ではなく「可哀想」なんだと思います。
でも、哀れみや同情って、弱い立場とか、つらい状況の人に対して抱く感情ではないのか?今の石田って、そういう「可哀想」な人なのだろうか?という疑問を抱いてしまうのです。
たとえば、"本当は先発したいのに今年も中継ぎで「可哀想」"なんかは特に、石田を「可哀想」な人だと決めつけている、勝手にそういう枠におさめている、そんなふうに思えてなりません。
今の石田をちゃんと見て欲しい。
石田が嫌々中継ぎをやっているように見えますか?そんな気持ちの選手が窮地を救えると思いますか?
「優勝したい」という選手は数多くいるが、「優勝しなきゃマズい」と危機感をもって語る選手はあまりいない。ましてや1998年以来20年以上リーグ優勝できていない横浜DeNAベイスターズの選手であればなおさらだ。
しかし、石田健大は真剣な表情で言うのだ。
「今年じゃないかなとは思っているんです。今シーズン獲れなかったら、逆にマズいと思うんですよ」
DeNAを優勝に導くは石田健大か。頼れる投手の今季にかける決意。 - プロ野球 - Number Web - ナンバー
「任されたポジションで結果を出すことしか考えていません。どのポジションでも自分の力を出し切り、チームの勝利に貢献できる投球をするだけです」
DeNA石田は中継ぎで開幕へ、ラミレス監督が明言 - プロ野球 : 日刊スポーツ
チームの勝利のためなら、ポジションは関係ない。任されたポジションで全力を尽くす。
本人がそう言っているのに、ファンだけでなく解説者まで「先発でもおかしくないんですけどねえ」とか「先発したいんじゃないんですかねえ」とか言い出す始末……。
石田は先発でも活躍できる。
そう思ってもらえるということはそれだけ、石田の能力が評価されているのだと思います。だからファンとして嬉しい気持ちもあるんです。
でも、今の石田は先発じゃない。
中継ぎとして、全力を尽くしている。
ならば、中継ぎとしての活躍を評価すべきではないか。
石田の活躍は数字としてもちゃんと残っていますので、リンクを貼っておきます。
石田 健大(横浜DeNAベイスターズ) | 個人年度別成績 | NPB.jp 日本野球機構
- nf3 - Baseball Data House DeNA - 投手成績 14 石田健大 -
もしかしたら今後チーム事情が変わって、石田が先発すべきタイミングが来るかも知れません。でもそれは「もしも」の話であって、「もしも」の話をすることにさして意味を感じないのです。
それに、そのときが来たとしても石田はきっと言うでしょう。
「任されたポジションで結果を出すことしか考えていません。どのポジションでも自分の力を出し切り、チームの勝利に貢献できる投球をするだけです」と。
石田は、決して「可哀想」なんかじゃない。
以上、オタクの妄言でした。